
全国に知られた「仙台みそ」
伊達政宗
四百年以上の歴史と伝統を持つ「仙台みそ」は、関西の白みそに対して赤みその代表格。安土・桃山時代から全国的にその名が知られていたという逸話があります。
十六世紀後半(1592年)日本全国を統冶していた豊臣秀吉公は、他国へ勢力をのばそうと、各藩の大名に兵を出せと命じます。兵は兵糧である地元の味噌を携えて海を渡ります。
長い滞陣の間に他藩の味噌は変質してしまいましたが、わが藩祖伊達政宗公が持参していた味噌は唯一変質しなかったため、「仙台の味噌は質が良い」と評判になりました。
そしてこの評価が、全国的に高まって行ったと言われ、食通の政宗公と仙台みその強い結びつきがうかがわれます。

味噌屋仲間掟留帳
味噌仲間
政宗公は、城下の産業の改良と発展に力を注ぎました。藩と味噌屋たちは政宗公の精神を活かした「味噌仲間」を結成して、四季を通じて変質しない良質で美味しい「仙台味噌」を造りました。
「味噌屋仲間掟留帳」には原料配合、品質吟味、価格決定、雇用関係など、生産から販売に至るまで厳しい掟が定められており、藩の管理の下で明治の初めまで三百年間固く守り続けられました。
こうした歴史と伝統を心に刻み、ジョウセンは大正8年(1919年)の創業以来、本格仕込み天然醸造の技術を生かして、「ほんもの一筋」を守り続けています。今後どんなに時代が変わろうとも、ジョウセンは、その味と心を変えることはありません。

東温画「仙台屏風」六曲半双の一部
三原良吉氏所蔵 ○囲い御塩噌蔵
御塩噌蔵(おえんそぐら)
兵糧であるみそは、戦国時代各藩の武将たちから、戦闘能力を左右する戦陣食として、米の次に重大な関心を寄せていた食品です。
慶長6年(1601年)政宗公は、青葉山の築城と共に城下の屋敷割りを行い、城下の中心と街道筋に町屋敷を置いて諸々の商人や職人達を居住させました。
城の側には、「御塩噌蔵(おえんそぐら)」と呼ばれる日本で最初に工業生産を行ったみそ工場を建設し、真壁屋古木市兵衛を藩の御用味噌屋(1626年)に登用、国分町に「仙台味噌」の招牌を掲げさせて品質の向上を図らせました。御塩噌蔵で醸造された仙台味噌は、軍糧・備荒用として備蓄され、城中で毎日の食事に食されました。

上/寛文四年 仙台城絵地図と○御塩噌蔵
下/現在の地図●は御塩噌蔵の碑

中国の調味料「醤」が味噌の起源!?
味噌は、古代中国の「醤」が起源だといわれています。醤は、獣や魚の肉をつぶし、塩と酒を混ぜて壷につけ込み、100日以上熟成させたもの。醤がいつ頃、どのように日本に伝来したのかは、よく解っていませんが、醤の文字が初めて登場する「大宝令」{701年}には、中国にない「未醤」という言葉がみられます。これは醤に日本人が工夫を加えた新しい調味料で、みその前身ではないかと考えられています。「未醤」が「みしょう」から「みしょ」にそして「みそ」という風に変化したのではないかという説もあります。
ちなみ「噌」という漢字は「味噌」以外には使われません。「みそ」のためだけにつくられた字です。味噌という文字は「味」は{口}と{未}でできています。「未」には「美」の意味もあり{口に美味しいもの}となります。「噌」は{口}に{曾}です。「曾」は「重ねる・にぎやか」という意味合いがあり、「味噌」は{うまい味がにぎやかに、たっぷり詰まった「大豆発酵食品」}ということになります。「味噌」という字は性格をよく物語っています。
藤原宮(A.D.694~710)
― 特別史跡(飛鳥の宮)出土した木簡
右より
「皇太妃宮職解 御等給布廿端」
阿閉(あべ)皇太妃(後の元明天皇)のために設けられた役所から上級官司に布二十端を請求した文書
「大寶三年十一月十二日御野国楡皮十斤」
大宝三年(703)現在の岐阜県からさしだされたニレの皮の荷に付けた札
「謹啓今忽有用処故醤」(表)
「及末醤欲給恐々謹請 馬寮」(裏)
馬寮から食品担当官司に「醤」と「末醤」を請求した文書
※写真資料提供「奈良文化財研究所」

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